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privateとpublic:バカの悪目立ち [雑感・日記・趣味・カルチャー]

少し元気を取り戻したので、ギターと三線とピアノの練習を1時間ほどしました。楽器を弾いていると、仕事のストレスが少しだけ緩和される気がします。

仕事のストレスの原因は、主に近頃の学生の態度です。一部の学生であって、全体ではないのですが、どうも彼らには自分たちが「社会人」であるという自覚がないのです。

「社会人」というのは、愚かしい日本人が誤解しているような「会社員」と同義ではありません。本来の「社会人」は、私的な(private)ものと、公共の(public)ものをきちんと分けて考えることでき、私的な幸福を追求することによって「公共の福祉」に資する人間のことです。学校の道徳教育で教えられていることの真髄はそこにあります。哲学や社会学では常識かもしれませんが、日本人はヨーロッパ人とは違って公共(public)の概念が理解できないらしいのです。

大学というところは、どういう専攻であろうとも、論理的思考能力を鍛えることで、不条理なことに満ちた「世間」を「公共の空間」に変革する力を持つ「社会人」を育成する場所です。

私的なものと公共のものを分けられる人間は、教室を公共の空間と見なしています。したがって、私的な利益を追求しながら(新たな知識を吸収すること)、他者の迷惑にならないように、かつ他者の利益を追求することを優先します。決して、私的なことだけを行うことが許される空間ではないのですから、授業中に居眠りをするなどというのはありえません。授業とは関係のない私語もありえませんし、授業の内容とは関係のない文庫本を読んだり、スマホでゲームに興じたりすることもありえません。それをしたければ、教室の外に出ていくのが道理です。論理的な思考力があれば、誰でもそうするはずです。

学生は、学校の中の「社会人」として振る舞うことを通して、数年後に会社に加わって、企業の利益を追求しながら社会貢献することを目指す「社会人」になる準備をしています。

企業では、顧客の注文を受けて、その注文通りのものを作り、顧客を満足させ、利益を得ます。学校では、教員の注文を受けて、その注文通りのものを作り、教員を満足させて、卒業するための単位を得ます。会社でやっていることと、学校でやっていることはまったくの相似です。この相似に気づいていない学生に私は手を焼いているのです。毎週のように説教をし、疲労困憊し、また教室の雰囲気も悪くしています。数名の学生が、いくら説明しても、顧客(教員)の注文に耳を傾けず、自分の思い込みだけで、文章を書き、提出するのです。たとえば、これは食堂の客がうどんを頼んでいるのに、注文の内容を確認せず自分思い込みだけで、そばを持ってきたようなものです。客からしたら、作ったものは無駄になるけれど、私の注文通りのものを作ってくれないと、私は努力は認めるけれど、そばアレルギーがあるので、食べられません。愚かな店員にとっては、そばもうどんも同じだろうと思うのかもしれませんが、アレルギーという観点では、まったく別物です。客は「そういう食べられないものを持ってこられても、私はお金は払えないので、作り直してくれませんか」と頼みます。そうすると、その分は店側の赤字になります。大学が、そういうとんちんかんな店員を育てる場所であるというのなら、喜んでそうしますが、それが教員としての社会貢献になるとは思えません。客の注文通りのものを作れる人間を育てるのが教員の責任ですから、私はできそこないの店員を指導しなければいけないのです。さもなければ、客に迷惑がかかります。

今日もまた、とんでもない学生が一人現れてショックを受けました。エッセイを来週の授業内で書くので準備しておくようにと命じたら、今日持ってきたので受け取ってくださいというのです。こいつも勝手に注文を変えてしまうようなクソッタレな奴です。食後に珈琲を持ってきてくれと頼んだのに、食前に持って来るような真似をする奴です。

しかも、見ると、私が指定した語数の制限を守らず、大幅に超えています。たとえば、雑誌や新聞社から原稿を頼まれた場合、字数制限を伝えられます。その字数を超えてしまうのはご法度です。多く書いてきたんだから、それで満足しろと学生は言いたいのでしょうか。読まされる方の迷惑を考えてほしいです。超過分は当然ですがマイナス査定になります。約束を破ったのですから、無責任な奴だとして、二度と原稿を頼むことはないでしょう。食堂に例えれば、「ご飯は普通盛りにしてほしい」という注文を受けて、大盛りにして出す店員みたいなもので、会社側に損失を出す存在ですから、徹底的な社員教育が必要になります。

さらに驚いたのは、その学生は、何かの反故紙(他の授業の配布物)の裏に書いて私に提出したのです。環境に配慮した立派な振る舞いだと思っているのかもしれませんが、反故紙を教員に提出するという行動は、明らかに学校を公共の空間とは捉えていないということです。会社の面接の際に、履歴書を新聞のチラシの裏に書いて出したら、どういうことが起きるか想像できないのでしょうか。会社で許されないことが学校では許されると思っていること自体、その学生は論理的思考力が大幅に欠如していると言わざるを得ません。

また、その学生はうちの会社をその程度の価値としてしか認めていないと捉えるはずですから、即不採用決定です。履歴書なんか一瞥もしません。そこの大学はそんなクソみたいな人間を育てているのかと思われるので、他の学生にも大きな迷惑がかかります。地球環境を守る気持ちはわかりますが、反故紙は、私的なメモとして使うのが社会人としての当然の振る舞い方です。

近年、呆れるほどのバカが増えてきたように感じます。小泉政権や麻生政権、そして民主党政権の頃の日本は就職難でした。あの頃の学生は本当に真面目で素晴らしい学生が多かったです。私なんかよりもはるかに大人で、いつも敬服していました。ところが、今の学生は、人材難ですから、会社を選ばなければ、どこでも正規雇用として採用されるらしく、社会を甘く考えています。さらに大学ですら、「大学全入時代」といって、どこでもいいのなら、必ず大学生になれる時代になっています。おそらくそのせいなのでしょう、非常識すぎるバカが一気に増えたのは。

今日も、授業での発表をすっぽかした4年生がいました。代わりに、風邪で苦しんでいる私が彼女の代わりをしました。就職活動を理由に約束を破ったと主張されても、社会も会社も約束を破ることが許されるわけではないので、社会人を育成する責任を持つ教師としては、彼女には単位を認定しません。当たり前のことです。

私はファミレスにはあまり行きません。なぜかというと、お金がないからという理由以外に、アルバイト店員の態度が気に障るからです。プロ意識がないというか、責任感がないと言うか、客に注意を払っていないというか、バカにしていると言うか。近頃のファミレスは、不愉快な気持ちにさせる若い女性ばかりで、まるで豚の餌を食わされるような気分になるのです。おそらく彼女たちも、大学生なのでしょう。その仕事ぶりから、授業態度が想像できます。

私はスーパーに行っても、若い店員のレジには並びません。ものの扱い方も人間の扱い方が雑だからです。トマトなんか潰されそうで、怖いくらいです。

やはり、おばさんがいいです。人間として、社会人としての振る舞い方を知っているので、非常に良い気分で買い物ができます。

近頃、バカが繁殖している理由は、少子化の要因が大きいのでしょうが、若いやつを甘やかしすぎると、社会全体がよりいっそうギスギスしたものになるかもしれません。

もちろん、上に書いたように、すべての学生が馬鹿なわけではありません。全体的に素直で良い学生が多いのですが、だからこそ、バカが悪目立ちしてしまうのです。

どこかの大学の授業で、学生に「お前は腐ったみかん」だと言って、パワハラだとかアカハラだとか言われた先生がいたそうですが、そんなことがニュースになって、教員に制裁を加えるのは本末転倒です。私は素晴らしい先生だと思います。「腐ったみかん」を守ることが、社会全体を良くすることであると考える教師を増やすことが社会貢献であるという考えが支配的になりつつありますが、ほぼ確実にその病が日本を破滅に導くでしょう。

私も、それが社会の希望なら、どんどん腐らせてやります。明日からは、以前のように、バカは無視して、黙って落とすだけにします。学生のためとか、社会のためとか、脳みそのないバカにはまったく響かないようですから、放置プレイです。