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馬鹿を相手にするのは時間の無駄 [資格・学び]

相手を馬鹿にすることも無駄ですが、もっと無駄なのは馬鹿を相手にすることです。そんなことをしても得るものは何もありません。私は、物心がついてから現在に至るまで終始一貫馬鹿が大嫌いです。存在そのものを許すことができません。

馬鹿というのは、物事に対する基本的な姿勢が間違っている人のことです。他者へのリスペクト(配慮)がない人と言ったらわかっていただけるでしょうか。昔からほとんど変化はないのかもしれませんが、大学生の圧倒的多数は、授業をテレビ番組を見るようにひたすら消費しています。(というより、消費すらしておらず、テレビの電源すら入っていない人も多いようです。)口をぽっかり開けていると、上から親鳥が当たり前のように餌を与えてくれると思いこんでいるようなものです。そういう人を「学生」と呼ぶことは完全に間違っています。彼らは大学で「学問をする」姿勢ができていないからです。積極的に問いを発することで、学んでいくことを学問と言い、そんな自発的な姿勢で学ぶ人を学生というのであれば、親鳥に全面的に依存し、親鳥をリスペクトできていない「ひな鳥」は学生に値しません。本来、大学にいてはいけない人たちです。ここではそういう類の人々を「馬鹿」と呼ばせてもらいます。

はっきり言わせてもらいますが、「社会人」と自称する会社員の圧倒的多数は、大学時代、「消費者」だった人でしょう。だからこそ、彼らは自らを恥ずかしげもなく「社会人」と呼ぶほどまでに思考停止しているのです。どこかの会社に雇用されているからと言って、「学生」よりも上のレベルに成長したと思いこんでいるようですが、彼らは「学生」ですらなかったのですから、それ以下の存在です。本来の「社会人」というのは、社会を構成する要素である他者へのリスペクトを持っている人です。他者へのリスペクトがなければ、社会はうまく回っていきません。それがわかっていない自称「社会人」は、ただの無能な奴隷です。いわゆる「社畜」ですね。強制労働させられるボランティア(志願兵)みたいな語義矛盾です。

ちなみに、一日も欠かさず授業に出席し、一言も言葉を発さずに、コツコツとノートを取っていた受動的な人たちも、学生ではありません。むしろ、授業に真面目に出なかったような「真面目」な人たちのほうが、本物の学生だったかもしれません。その理由は明らかでしょう。彼らは誰かに何かを教えてもらおうとするのではなく、自ら積極的に何かを学ぼうとしている人だからです。

要するに、「馬鹿」というのは、一言で言うと、姿勢が悪い人のことです。態度が悪い人と言っても良いでしょう。悪態をつかないまでも、他人へのリスペクトを示さないのですから、他人から何かを学ぶ姿勢がまったくないはずです。

馬鹿は何も学ばないのですから、自分が馬鹿だと気づく能力すらありません。だから、死ぬまで馬鹿のままでいるしかありません。そんな馬鹿は教育不可能です。せめて、彼らに私の人生を狂わされないように、馬鹿を可能な限り視界に入れないように生きていきたいと思います。

誰も教えてくれない「考える力」の学び方――哲学的対話への誘い | ハーバービジネスオンライン

考えることは、誰かに教えてもらうものなのでしょうか。また、誰かに教えることができるものなのでしょうか。

日本人の多くがいまだに知らない「沖縄の本音」(木村 朗) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

沖縄の米軍基地問題は、本土の日本人の思考停止状態を如実に表すものです。

「感謝が足りない」と思われるThank youとは? 英語の「影の意味」に要注意!(NIKKEI STYLE) - Yahoo!ニュース

日本人は、他人に感謝しない人たちですから。

「雑談には聞く力が大事」は間違いと指摘 質問ばかりでは不信感募らせる? (2018年9月23日掲載) - ライブドアニュース

私の会話スタイルです。一方的に質問ばかりするのでも、話を聞くことに専念するのでもなく、自分のことを話しつつ、相手の話を引き出して、一つの物語を共同で作り上げようとするのが私のスタイルです。そうやって物語を作る行為の快感がわからない幼稚な日本人が圧倒的多数です。存在自体が不愉快です。

『生き物としての力を取り戻す50の自然体験』から浮かび上がってきた、自然への興味と輪郭 YAMAYA - ヤマケイオンライン / 山と渓谷社

下界にいるだけで、生きる気力が失われます。生き物としての本来の力を取り戻したいですね。

山に行くと“おなら”が頻発! 登山あるあるのワケを医師に聞いてみた!|YAMA HACK

山に行くと、おならをする力が強化されます。これが生きる力なのかもしれません。

日本は「超エリート」をGAFAに奪われている | インターネット | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

文科省の役人が私企業と結託して、甘い汁を吸うことに熱中しているうちに、花が枯れて、日本は砂漠になりました。

裏山探検で遊びたおす少年おじさん「ランボーに憧れて」 :DANRO(ダンロ):ひとりを楽しむメディア

ちなみに森さんは、洞窟探しを「グーニーズ」、森林を行くことを「ランボー」と呼び、(ないとわかっていながら)死体探しの冒険にでることを「スタンド・バイ・ミー」と呼んでいます。


私も青木ヶ原樹海に「スタンド・バイ・ミー」しに行こうかな。

BBC - Culture - Yayoi Kusama’s extraordinary survival story

いま最も売れている女性芸術家の草間彌生は、そんな壮絶な人生を歩んできたのですね。知りませんでした。



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復習は必要なのだろうか [資格・学び]

トレーニング的な要素が強い学習において、復習は絶対に必要なのかどうか。

楽器の練習で、1曲を完全に覚えるまで次の曲を演奏しないという方法がある。私は飽きっぽい性格なので、それができない。毎日、ウクレレで数曲を一回ずつ弾いて終わる。もちろん同じ曲を2回弾くと、間違いも少なくなっているが、しかし、すぐに飽きてしまう。加齢のせいか集中力が持たないのだ。

英語のリスニングを教えるときでも、前の週に扱った内容を再び学生に聞かせることはしない。どんどん次の課題をやらせてしまう。私が飽きるからである。これも老化現象だろうか。

復習をしないのは、飽きるからという理由だけではない。特段の必要性を感じないからだ。ウクレレの練習でも、いろんな曲を弾いていると、共通する部分が必ずあるので、ある曲でできなかったことが、別の曲を練習しているうちにできるようになることがある。リスニングの勉強でも同じだと思う。スキットが変わると、単語もフレーズも構文も音も発音もまったく違うということはありえない。たくさんのスキットを聞く練習をしているうちに、かつてわからなかったものが、あとでわかるようになるものだ。

わざわざ復習を意識的に行わなくても、いつのまにか復習をすることはできると思う。私はそういう方式でこれまでやってきたし、それが好きだ。

もちろん、歴史とか科学とか、もっぱら知識を覚えることに専念しなければならない教科では、復習することが大切である。しかし、トレーニング的な要素が強い学習では、同じことを意識的な毎回繰り返す学習は効果的ではなく、むしろ、学習意欲を削ぐのではないか。






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