新型コロナウイルス、セックス依存症 [雑感・日記・趣味・カルチャー]
新型コロナウイルスの感染者数が全世界で2000人を超え、日本でも4人出ているそうです。しかも、しだいに感染力を強めているとのこと。また中国での死者数は56人に上り、これ以上の感染の拡大をふせぐために、中国政府は団体旅行を禁止したとのこと。しかし、6割に上る個人旅行のほうは禁止してはいないので、その対策に効果があるのか定かではありません。感染者数がますます増えていくのは容易に予想できます。
連日連夜、テレビやネットでこのニュースが報じられていますが、マスコミは人々の恐怖を煽ることに躍起になっているかのように思えます。そんなに詳細に報告しても、一般庶民が感染拡大を止めることはできません。マスクをしても実際のところほとんど効果はないのですから、どうしようもないのです。あんな隙間だらけのマスクをしていても、もっと大きな花粉だって結構吸い込んでしまうんですよ!
マスコミが視聴率が取れるからと言って、そんなふうに恐怖ばかりを煽っていると、日本経済にダメージを与えて、自分の首を自分で締めてしまうように思われます。あまり熱心に報じなくても良い気がします。
いまのところ私はまったく恐怖を感じていません。のんきなものです。万が一かかったらさっさと死んでしまいたいとすら思っています。その方がこの腐りきった日本でだらだらと生き続けるより、はるかに楽です。
冷静に考えてみれば、新型コロナウイルスの感染者数は、インフルエンザの罹患者数と比べれば、はるかに少ないことに気づきます。今年度私が受け持った300人ほどの学生の中で、5、6名インフルエンザで期末試験を受けられなかった学生が出ました。個人的なデータに過ぎませんが、2%もいたわけです。それに比して、新型コロナウイルスの感染者は、70億人の中2000人であるならば、0.000028%です。宝くじなんか当たるわけがないと思っている人なら、自分が感染する確率はほぼゼロに近いと思うでしょう。ほぼ自分に影響はないことに対して、不安を感じてしまうのだとしたら、そっちのほうが怖い気がします。
我々が恐れるべきことは他にたくさんあります。地球温暖化、原発事故、大地震、津波、洪水、干ばつ、火事、交通事故、インフルエンザ、風邪、さらには将来年金がもらえなくなって生活保護を受給しなければいけなくなること、株式市場が暴落して、世界大恐慌に陥ってしまい、会社が潰れて家族が路頭に迷うことになることなど。しかしながら、そんなことをいちいち不安に思っていたら、生きていけません。
話は少しずれますが、先日、面白いウェブ記事を読みました。セックス依存症の女性の話です。人間は不安にかられる習性を持つ生き物ですが、その不安は過去や未来に起因し、現在には起因していません。人はなかなか現在のこの瞬間のみを考えて生きることができません。この瞬間に集中して生きていれば、不安に怯えることもなく、充実した日々を送れるはずです。座禅を組むのも、マインドフルネスに興じるのも、滝に打たれるのも同じことです。そして、セックスもそういうものなのだそうです。そのセックス依存症の女性は、そういう不安から逃れるために、行きずりの男性とセックスをしてしまうのだそうです。
私が、楽器演奏に凝っているのは、もしかしたら、その女性に似ているのかもしれません。楽器を弾いている間は、音を外さないようにとか、良い音を奏でられるようにということしか考えていません。一瞬一瞬に集中しているのです。しかし、集中力が途切れると、「賢者タイム」が訪れ、自分はいったい何をしているのかと不安にかられてしまいます。こんなことをしていても、お金にならないじゃないかと。
しかし、いったいどちらが無駄な時間なのでしょうか。過去や未来に起因する不安にかられている時間のほうが無駄でしょうか。それとも、この瞬間に集中している時間のどちらが無駄なのでしょうか。どちらも無駄なのかもしれませんが、この二択でしたら、前者の方が無駄だと思います。世間一般には、セックス依存症の人を気の毒に思うかもしれません。しかし、不幸なのは、むしろ、日々不安に苛まれている側の人間の方だと思います。
新型コロナウイルスもまた、人類の英知を使って、エボラ出血熱、SARS、MARSなどと同様に滅することができるはずです。私は、パニックになる暇があったら、この瞬間に集中して生きていきたいと思います。
連日連夜、テレビやネットでこのニュースが報じられていますが、マスコミは人々の恐怖を煽ることに躍起になっているかのように思えます。そんなに詳細に報告しても、一般庶民が感染拡大を止めることはできません。マスクをしても実際のところほとんど効果はないのですから、どうしようもないのです。あんな隙間だらけのマスクをしていても、もっと大きな花粉だって結構吸い込んでしまうんですよ!
マスコミが視聴率が取れるからと言って、そんなふうに恐怖ばかりを煽っていると、日本経済にダメージを与えて、自分の首を自分で締めてしまうように思われます。あまり熱心に報じなくても良い気がします。
いまのところ私はまったく恐怖を感じていません。のんきなものです。万が一かかったらさっさと死んでしまいたいとすら思っています。その方がこの腐りきった日本でだらだらと生き続けるより、はるかに楽です。
冷静に考えてみれば、新型コロナウイルスの感染者数は、インフルエンザの罹患者数と比べれば、はるかに少ないことに気づきます。今年度私が受け持った300人ほどの学生の中で、5、6名インフルエンザで期末試験を受けられなかった学生が出ました。個人的なデータに過ぎませんが、2%もいたわけです。それに比して、新型コロナウイルスの感染者は、70億人の中2000人であるならば、0.000028%です。宝くじなんか当たるわけがないと思っている人なら、自分が感染する確率はほぼゼロに近いと思うでしょう。ほぼ自分に影響はないことに対して、不安を感じてしまうのだとしたら、そっちのほうが怖い気がします。
我々が恐れるべきことは他にたくさんあります。地球温暖化、原発事故、大地震、津波、洪水、干ばつ、火事、交通事故、インフルエンザ、風邪、さらには将来年金がもらえなくなって生活保護を受給しなければいけなくなること、株式市場が暴落して、世界大恐慌に陥ってしまい、会社が潰れて家族が路頭に迷うことになることなど。しかしながら、そんなことをいちいち不安に思っていたら、生きていけません。
話は少しずれますが、先日、面白いウェブ記事を読みました。セックス依存症の女性の話です。人間は不安にかられる習性を持つ生き物ですが、その不安は過去や未来に起因し、現在には起因していません。人はなかなか現在のこの瞬間のみを考えて生きることができません。この瞬間に集中して生きていれば、不安に怯えることもなく、充実した日々を送れるはずです。座禅を組むのも、マインドフルネスに興じるのも、滝に打たれるのも同じことです。そして、セックスもそういうものなのだそうです。そのセックス依存症の女性は、そういう不安から逃れるために、行きずりの男性とセックスをしてしまうのだそうです。
私が、楽器演奏に凝っているのは、もしかしたら、その女性に似ているのかもしれません。楽器を弾いている間は、音を外さないようにとか、良い音を奏でられるようにということしか考えていません。一瞬一瞬に集中しているのです。しかし、集中力が途切れると、「賢者タイム」が訪れ、自分はいったい何をしているのかと不安にかられてしまいます。こんなことをしていても、お金にならないじゃないかと。
しかし、いったいどちらが無駄な時間なのでしょうか。過去や未来に起因する不安にかられている時間のほうが無駄でしょうか。それとも、この瞬間に集中している時間のどちらが無駄なのでしょうか。どちらも無駄なのかもしれませんが、この二択でしたら、前者の方が無駄だと思います。世間一般には、セックス依存症の人を気の毒に思うかもしれません。しかし、不幸なのは、むしろ、日々不安に苛まれている側の人間の方だと思います。
新型コロナウイルスもまた、人類の英知を使って、エボラ出血熱、SARS、MARSなどと同様に滅することができるはずです。私は、パニックになる暇があったら、この瞬間に集中して生きていきたいと思います。
2020-01-26 23:31
How to play Thinking Out Loud by Ed Sheeran on Violin (Tutorial) [音楽・楽器]
速すぎて弾けないところもありますが、概ね大丈夫です。
意外かもしれませんが、エドシーランは現代のポップアイコンではありますが、けっこうバイオリンに合う曲を作っていますね。
右側通行? [雑感・日記・趣味・カルチャー]
「歩行者は右側通行」と老婆が激怒 法的には「どちら歩いてもよい」 - ライブドアニュース
車じゃないんだから、どっちでも良いじゃないかと前から思っていましたし、私としては左側通行になることが圧倒的に多いですね。なぜでしょうね。
この高齢の女性は、法律に書かれてもいないことを、法律で決まっていると思い込んで、他人の説教したわけですけど、そういう思い込みに基づく説教ってよくあることかもしれませんね。気づかないうちに自分でも同じことをしていたら、かなりきまり悪いなあ。
車じゃないんだから、どっちでも良いじゃないかと前から思っていましたし、私としては左側通行になることが圧倒的に多いですね。なぜでしょうね。
この高齢の女性は、法律に書かれてもいないことを、法律で決まっていると思い込んで、他人の説教したわけですけど、そういう思い込みに基づく説教ってよくあることかもしれませんね。気づかないうちに自分でも同じことをしていたら、かなりきまり悪いなあ。
2020-01-26 13:42
医師や製薬会社社員が「本音」 高くても飲みたい薬、飲まない薬 - ライブドアニュース [雑感・日記・趣味・カルチャー]
医師や製薬会社社員が「本音」 高くても飲みたい薬、飲まない薬 - ライブドアニュース
私が先日医師に処方してもらった「グラクティブ」という血糖降下薬は高価でも医師が飲みたい薬に入っていました。十数年前、「アクトス」という薬を処方されたことがあります。それを飲んだあと通勤途中で低血糖になって倒れそうになり、すぐに飲むのを中止した記憶があります。そのアクトスは、果たせるかな、医者が絶対に飲まない薬に入っていました。
鎮痛剤に関しては、ロキソニンやボルタレンは止めたほうがいいのだそうです。代わりに飲むべきなのは、セレコックスだそうです。
医師は受けないバリウム検査がなくならない訳 胃カメラのがん発見率は1000倍高い | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
私もバリウム検査は絶対に受けません。この記事に書かれているように、精度が低いし、時代遅れだからです。私はストレスを受けても胃が痛むことが全くない体質なので、胃がんは心配していません。
私が先日医師に処方してもらった「グラクティブ」という血糖降下薬は高価でも医師が飲みたい薬に入っていました。十数年前、「アクトス」という薬を処方されたことがあります。それを飲んだあと通勤途中で低血糖になって倒れそうになり、すぐに飲むのを中止した記憶があります。そのアクトスは、果たせるかな、医者が絶対に飲まない薬に入っていました。
鎮痛剤に関しては、ロキソニンやボルタレンは止めたほうがいいのだそうです。代わりに飲むべきなのは、セレコックスだそうです。
医師は受けないバリウム検査がなくならない訳 胃カメラのがん発見率は1000倍高い | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
私もバリウム検査は絶対に受けません。この記事に書かれているように、精度が低いし、時代遅れだからです。私はストレスを受けても胃が痛むことが全くない体質なので、胃がんは心配していません。
『紅蓮華 』GURENGE - Demon Slayer: Kimetsu No Yaiba OP Violin | Luna Lorrain [音楽・楽器]
これは無理。
このバージョンなら速度を落とせば弾けるでしょう。
それはさておき、先日ウェブの記事で読んだのですが、ある占い師によると、占いの世界には「占い文法」なるものがあって、だいたいそれに沿って書くことになっているそうで、占いの言葉の具体的な側面にはほとんど意味がないとのこと。
彼女の告白を読んで、昔、ある男性の人気占い師がFMラジオで同じことを言っていたことを思い出しました。たとえば、星座の名前を手で隠しておいて、そこに書かれている文章を12星座分すべて読んでいき、自分の星座について言っていそうなものを選ぶという実験をしてみると、どれもこれも自分に当てはまるような気がするそうです。血液型占いでも同じです。これはいわゆる「バーナム効果」とか「フォアラー効果」とか言うものです。心理学のクラスを受講した人なら誰でも知っている現象です。
その占い師がなぜ占いをし続けるのかと言うと、実は、「何もかもあなたのせいばかりではないのですよ」ということを伝え、傷ついている人々を癒やしたいのだそうです。
無責任社会の伝統のある日本では(昭和天皇は戦争責任を取りませんでしたね!)、誰もが責任を取らず、他人のせいにし続けてきました。近頃盛んに用いられる「自己責任」も、肯定的な意味ではなく、否定的な文脈の中で使われています。「お前が不幸なのはお前が努力をしなかったせいであり、お前とは他人の関係にある俺(あるいは政府は)はまったく悪くないし、俺はお前を助けてやる義務はない」という文脈です。こんなふうに「自己責任」という言葉は、自分の責任を回避するために多用されているのです。本来は、自分の言動を自分の責任として積極的に引き受けることを称揚する思想がなければいけないのですが、残念ながら、いまは逆になっています。
無責任と同義の意味で使われる「自己責任」という言葉に苦しまされている人たちを救うためには、すべてを、自分と利害関係のある人ではなく、星回りのせいにしてしまうことが最善だと、その心優しい占い師は考えているようなのです。なるほどと思いました。
確かに、世の中には、そういう装置がたくさん存在します。そのような装置がなかったら、苦しすぎて生きていられないかもしれません。それらの中には、神社や寺院も存在します。なにもかもを神や仏のせい(おかげ)にしてしまえば、自分が所属するコミュニティーの誰かを傷つけたり、争いを拡大することもありません。実は、為政者はその機能を悪用して、民衆の怒りの矛先をかわしてきたわけです。
自分の人生が苦しいものであるのは、もちろん、他人の責任ばかりではありません。しかし、かといって、すべて自分のせいばかりでもありません。いろんなことが輻輳的に重なり合って、この状態になっているわけです。仏教というものは、そういうことを静かに受け入れていけるようになることを求めていますが、ただそれに甘んじるだけであるのも、虚しさが募るだけでしょう。人生・生命(Life)というものは、実に複雑ですね。