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Shallow (A Star Is Born) - Lady Gaga, Bradley Cooper - Violin Cover by Karolina Protsenko [雑感・日記・趣味・カルチャー]



この曲は、ピアノで弾いてもクソつまらない曲ですが、バイオリンだといいですね。

それはともかく、昨夜、全身をダニに噛まれたらしくて、額(ひたい)や項(うなじ)から膝裏まで皮膚の柔らかい部分がぷっくりと腫れ上がっています。特にひどいのは、お股です。だいたいはポツポツという膨らみなのですが、そこだけは、両方の脚の付け根に直径20センチほどの赤い広がりが見られます。お尻もほっぺたも同様に痛痒いので、座っているとちょっと辛いです。私はアトピーではないのですが、アトピー患者はこういう痒みに耐えて生きているのかもしれません。痒くて集中力が途切れます。

あまりに耐え難いので、明日、朝早く皮膚科に行って診てもらってくる予定です。

そんなに私の寝床が汚いのでしょうか。シーツは頻繁に洗濯しているし、マットレス(イタリアのマニフレックス)もときどき起こして乾かしたり、ひっくり返して使っていますし、床だってしょっちゅう掃除機をかけています。しかし、マットレスは15年選手ですから、もはやダニの巣窟なのかもしれません。気休めかもしれませんが、マットレスにアイロンを当てておきました。ダニは50度になると死ぬそうです。その後、掃除機で死骸と糞を吸い取っておきました。(吸い取ったかどうか見たわけではないですけど。)

これまでもたまにダニに噛まれたなという程度の軽いかゆみを感じることはありました。しかし、今回は全身ですから、びっくりです。しかも、腫れ上がり方が尋常ではないのです。写真をお見せしたいくらいですが、中年男の体なんて見たくもないでしょうから、貼り付けないことにしました。もしかしたら、強烈なアレルギー反応を起こしているのかもしれません。

医療関係者は、まず診断材料として、既往症やアレルギーの有無、直前に取った行動などとともに、直前に食べたものをチェックします。特に私が気になっているのは、トマトです。昨晩は、トマトスープなどトマトづくしの料理を私が作りました。しかも、トマトジュースも飲んでいます。ふだんは少ししか食べないものを大量に食べたことは、アレルギー反応の原因の一つのなっているかもしれません。医者に判断を仰いでみたいと思います。トマトはヒスタミンを出すらしいので、アレルギーを持っている人は控えたほうがよいそうです。でも、私はトマト好きなので、トマトはやめられないのです。困りました。

今年の夏休みは、ほんと、ろくなことがありません。


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詭弁(ソフィズム) [雑感・日記・趣味・カルチャー]

「議論をすり替える輩」にダマされる人の盲点 | アルファポリス | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

ここで取り上げられている詭弁(ソフィズム)の4パターンはすべて、私は授業で学生に教えているものです。要するに、因果関係が成立するかどうかという話で、英語では、becauseを使うか、asやsinceを使うか、それとも、それ以外の表現を使うかという問題に関わります。

1. 数ある原因の1つを唯一の原因のように語る
2. まったくの偶然を原因だと語る
3. おまけの要素を原因だと言い張る
4.「第3の要素」を無視して語る

詳しくは、件のウェブサイトをご覧になってください。要点をまとめると、因果関係を正しく捉えなければいけないということです。

私は昨日、宝くじを当てた人たちの対談というウェブ記事を読みましたが、噴飯ものでした。二人とも宝くじを当てるために験担ぎをしているというので、宝くじを当てるためには験担ぎをしなけれないけないという印象を与えるような内容でした。片方は、宝くじを買いに行くまでの道のりで必ず善行をしていると言っていました。善行といっても大げさなものではなく、道端のゴミを拾うのでもいい。そうすると、宝くじが当たらなくても、必ず自分の身の回りに良いことがあるそうです。この発言からも、この方は因果関係を正しく捉える教養を持ち合わせていないことがわかるし、しかも話をすり替えていることに自分でも気づいていないようです。こういう言説が世の中には溢れかえっているのです。

宝くじが当たったのはたまたまであり、その直前に行った行為のおかげで宝くじが当たるという因果関係を証明することは不可能です。一つの結果をもたらすのには、複数の原因が複合的に絡み合い、しかも、偶然が作用しているので、ある程度の条件を揃えて実験をしてみても、同じ結果が出るわけではないでしょうし、科学的に証明するような実験すら実際には行えないのです。

愚かな人というのは、えてして直前に行った行為が引き金になって、ある結果を導き出すと考えます。ある神社に参拝すると、大学受験で志望校に合格するとか、恋人に巡り会えるとか信じるのも同じことです。これもまた科学的に証明できません。証明が不可能なことにつけ込んで、いろんな宗教団体が人間の愚かさを金儲けの道具に利用しています。正月に初詣に行っても、誰にでも良いことが起こるということはありません。むしろ、人混みの中で財布をすられるかもしれませんし、混雑の中でストレスがたまり夫婦喧嘩をして、離婚に発展するかもしれません。本来の宗教というのは、そういうビジネスとは無縁のものであり、社会の安定と(子孫)繁栄、そして心の平安を希求するものではずです。

何度も言いますが、世の中には、呆れ返るほど、詭弁が溢れかえっています。他にも、私がよく授業で使う例は、富裕層は長財布を持っているから、長財布を買えばあなたも金持ちになれるという都市伝説です。都市伝説というか、昔々、電車の広告で見たものです。本の広告でした。いま売れている本だと書いてあったと記憶しています。それにしても、真似をするのは財布ではなくても、靴下や帽子などでも良かったはずですし、富裕層のマネをすれば金持ちになれるというのは、因果関係を逆転させています。金持ちだから、そういうライフスタイルを送っているわけであって、貧乏人が富裕層のライフスタイルを猿真似したところで金持ちになれるわけではないのです。金持ちが原因で、長財布が結果です。この場合、長財布は原因ではないのです。

そんな無教養な本を書いたり、売ったりする人は、意図的に人を騙しているのかもしれませんが、一体どういう育ち方をしたのでしょうか。親の顔が見たいです。こんな詐欺に引っかかる方も引っかかる方です。これが教科書的な詐欺であるということに気づかないような愚かな人がいるからこそ、詐欺師が活動できるのかもしれません。




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未体験の快楽 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

人はすぐ飽きます。人生経験が長くなっていけばいくほど、体験したことがないもの、まったくの未知のものが少なくなってくるものです。たとえパラグライダーで空を飛んだことはなくても、「テレビで見たことがあるし、わざわざ自分で体験しなくても、世界がどう見えるか、自分がどういう気持ちになるか、やる前からわかっているよ」という感覚です。歳を取ると、ますます退屈していくのは、こういうことです。何を食べても、「これは前に食べたことがあるな」という感じです。その食べ物がいくらおいしくても、いつも食べていれば、そのおいしさは、「退屈したおいしさ」でしかありません。

「私はお前と違って仕事が忙しいので、退屈する暇はない!」といばる人もいるでしょう。しかし、忙しくても退屈することはできます。自分に与えられた仕事を規定時間内にひたすらこなしているだけの人生が退屈と無関係なはずがないでしょう。仕事のやり方もわかっているし、やる前から結果もわかっているし、そして当然の結果にたどり着き、その対価としていくらもらえるかも事前にわかっているのですから、ハラハラドキドキなんか一切ありえません。たしかに忙しいことは忙しいのでしょうが、それは退屈した忙しさです。新しいことや、自分が知らないことを体験しているわけではないのですから。

「退屈」という熟語を、漢和辞典で調べると、本来は「負けて退却すること。気力がなくなること」を示す言葉であって、「何もすることがなくて、暇であきあきすること」は日本独自の意味と書いてあります。

(余談ですが、「安」の本来の(中国語の)意味は「安らか(な状態にする)」なのに、日本では値段の低さを示す意味が付け加えられたのと似ています。引退した横綱の日馬富士は元々「安馬 [あま]」という四股名をつけられていたのをご存じの方かも多いことでしょう。しかし、「安い馬じゃしょうがないだろう」と親方に改名させられたのです。「安馬(あま)」という四股名を見て、「暴れ馬を安らかにする男」と読むことができる日本人が多ければ、横綱らしい良い名前だと言って、改名に反対したはずです。結局、日馬富士は、暴れ馬の弟弟子をなだめることができず、暴力をふるって、強制的に引退させられてしまいました。改名しないほうが良かったといまだに私は思っています。まったくの余談でした。)

「忙しい」というのは、心を失っているのですから、まさに「負けて退却し、気力もなくなっている」場合もあるのです。それは充実していない忙しさ、空虚な忙しさです。

日常生活の忙しさにかまけているだけだと、いろんなものを失っていることになります。なにか大切なものを見失っているのかもしれません。私の周辺には「忙しい自慢」で私にマウンティングをする人が多いのですが、彼らは自分が自分自身に敗北していることさえ気づいていないのかもしれません。この状態を放置し続けると、心が病んでいくはずです。日本中、そんな病にかかっていることに気づかない病人に溢れているように思えます。私も、授業で忙しいときは、そういう病人になります。病気を自覚している病人であることが、唯一の救いですが。ちなみに、いまは夏休み中ですから、病人ではありません。

あまりに忙しくて、仕事に振り回されていて、自分がなんのために生きているのかわからなくなると、私はふと我に返ります。そこから、この退屈はどうすれば価値のあるものにできるのか、という思案が始まります。もちろん、その価値はお金になるかどうかの問題とは別です。すべての価値を換金可能性でだけで捉える人がたくさんいますし、経済学でもそういう発想がベースにあるのかもしれませんが、だとしたら、経済は「世を治め、民の苦しみを救う」という意味の「経世済民」ではなく、人をひたすら不幸にすることになるでしょう。価値は必ずしも計量的なものとは限りません。政治家や企業経営者の多くは、そこがわかっていないように思われます。

基本的に、退屈は無価値なものです。無価値のものを価値のあるものに変化させる方法は、ただ一つです。それは、いままで自分が体験したことのないものを体験し、知らなかったことやできなかったことを身につけるということだけです。その中には、趣味としての習い事を始めることや、資格取得のための学習もありますし、学校での学問もあります。もちろん、山に登ることや、ソロキャンプに行くことなども含まれます。いままで通ったことのない小道に入ってみて、雰囲気の良いお店を発見するというのも、暇な時間を価値のある時間に変えるものです。他人の話を聞いたり読んだりして、自分のものの見方が変わることも退屈した時間を有意義なものに変えてくれます。

未体験なことをあえてしてみるという気力を持つことは、自分の人生を価値あるものにすることでもありますし、自分の人生の中で絶対的な「勝利」を得ることです。他者に競り勝つことだけが人生の目標ではないはずです。他者との競争に勝っても、それだけでは退屈した時間を過ごしている場合もあります。人生に勝利したとは言えません。

自分の人生に勝利していると感じる瞬間は、「未体験の快楽」を味わっている瞬間です。アルキメデスが風呂の中で「エウレカ!」と叫んだように、「ああ、これって、こういうことだったのか!」と気づく瞬間のことです。

自分が発見したことが、すでに他人によって発見済のことであっても関係ありません。他人よりもいくら遅くても、自分の力で何かに気づけた、学べた、ということが重要なのです。それこそが、快楽です。その快楽を、自分の人生の中でただの一度でもいいから味わえたら、その人は幸せなのではないでしょうか。その快楽を味わい、人生に勝利するために、人は何かを学び続けるのです。


あおり運転事件のデマについて [雑感・日記・趣味・カルチャー]

【常磐道あおり殴打】デマの拡散も犯罪〜あおり運転事件、男性も女性も容疑者とまるで別人の名前が拡散される

よほどのバカではない限り、デマを拡散することが犯罪だという認識はあるはずです。いまさら「デマの拡散は犯罪です!」などと啓発しても効果がないように思われます。それとも、あおり運転事件を起こした容疑者と同じレベルのバカが日本には溢れているのでしょうか。そうなのかもしれません。

自分が掴んだ情報が誤情報であるかどうかを判別する能力があるかどうかは別として、なぜ人はサスペンスドラマを見たり探偵小説を読んで犯人探しをするのと同じ感覚で、現実世界の犯罪捜査を自分でもやってみたいと思うのでしょうか。

いまはインターネットがあるので、なんでも検索すれば、必ず正解が出てくると錯覚しているのかもしれませんね。彼らは自分の能力も過大評価しているだけではなく、ネットの力も過大評価しているのでしょう。やはり阿呆です。

警察が誤認逮捕にならないように丹念に情報を拾い集めているという基本的事実をリスペクトできないというのは、そうとうに問題です。

正しい情報というのは、ネット検索だけで、得られるものではないという事実を理解できるように、バカどもを教育する必要があるのかもしれません。

余談ですが、あおり運転の容疑者は、被害者意識の塊のような人に思えます。被害者意識は時に暴走することもあるのですね。

「夫婦の愛はなぜ消えるの?仮面夫婦になる真相と、やり直すヒント」という記事がためになります。 [資格・学び]

夫婦の愛はなぜ消えるの?仮面夫婦になる真相と、やり直すヒント | 女子SPA! | ページ 2

人は誰しも「認知の歪み」に悪影響を受けるので、意識的に「リフレーミング」をする(ものの見方や物事のやり方を変える)必要があるというお話です。

夫婦関係に飽きるというのは、ほんとうは自分に飽きていることという主張は実感としてよくわかります。自分に飽きているからこそ、現状を変えたいと希求し、これまで好きだったものを遠ざけたり、回避していたものに近づいたりするわけです。

物事に行き詰まったら、自分の立ち位置を少しずらすだけで、物事の捉え方が大きく変わることがあります。そういうことです。

近代言語学の父『ソシュール』を5分で解説。現代に与えた多大なる影響を紐解く | LOOHCS

上の話に通じるかもしれません。

「構造主義」が誕生するきっかけを作ったのがフェルディナン・ド・ソシュールです。意味や概念が先にあって、その後に言葉が誕生したわけではなく、言葉が先にあって、その後に意味や概念が生まれるという逆転の発想が、ものを生み出す「構造」(フレーム)に着目する思想を生んだのです。私の個人的な意見ですが、構造主義は、人間はみなお釈迦様の手のひらの上で遊んでいるだけという仏教思想にも通じるような気がします。