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「あやうく一生懸命生きるところだった」 会社辞めて知る自由の楽しみ [雑感・日記・趣味・カルチャー]

「あやうく一生懸命生きるところだった」 会社辞めて知る自由の楽しみ

他人基準で生きることの辛さ、虚しさ、ばかばかしさ。コロナのおかげで、他人のために、一生懸命に生きるべきではないことが身にしみてわかりました。

それこそが人生の無駄。他人のために生きるというのは、他人にこき使われて生きることです。なぜ他人に執着するかというと、他人に掻き立てられた欲望を満たすためです。

ソーシャルディスタンシングによって、他人との物理的心理的距離をできるだけ取るということが生きるために重要であり、自粛してはいけないことだと教えられました。他人との距離を縮めるよりむしろ、積極的に他人との距離を取るべきだと。これはパラダイムシフトです。

他人に無関心になると、他人と比べることをしなくなります。自分の中の絶対的な価値観を重視する生き方になります。「うちはうち、そとはそと」です。そういう生き方のほうが楽だと思います。がんばってはいけません。がんばらずに、楽しむ方法を考えましょう。


Don't Stand So Close To Me & Nothing Compares - Covid-19 Version [音楽・楽器]





笑かそうとして作ってくれたんでしょうけど、いまがいかにクレイジーな時代か、改めて教えてくれる貴重な資料になりそうです(笑)




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「不○不○」みたいな四文字熟語 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

不眠不休
不撓不屈
不偏不党
不即不離
不承不承
不老不死

「不○不○」みたいな四文字熟語を思い浮かべても、このくらいしか思いつかないし、知りませんでした。調べてみたら、「不耕不織」なる四文字熟語もありました。田んぼを耕さず、機織り(はたおり)もしないことから、生産的な仕事をしないこと、またそのような身分(武士)を指すそうです。私は武士ではないですけど、似たような生活を送っています。

それはそうと、もしコロナがなかったら、毎日「不眠不休」で恐ろしく欲求不満が溜まっていたはずです。しかし、いまはコロナのおかげでさっぱりしています。満員電車にも乗らずに済むし、嫌な人とも会わずに済むのですから。

しかし、「不耕不織」みたいな仕事もいつまでもできるわけではないので、この頃は「晴耕雨読」みたいな生産的な生活がしたくなってきました。

それにしても、世の中眺め回してみると、不要不急のことばかりですね。そもそもこの地球には人間がいらないのでしょう。むだな人間だらけです。

この数ヶ月の間、むだに多用されてきた「不要不急」という言葉で、人生を考え直した人もいるかもしれません。自分は不要不急な人間なんじゃないかと。

そんな「不要不急」な人間が「不要不急」の外出を不承不承避けてきた生活が明日から停止されます。しばらくの間は堂々と不要不急の用事を足すことができるわけです。

コロナに罹った人や、コロナのせいで収入が激減した人は大迷惑でしょうけど、そうではなかった人にとっては、ちょっとしたボーナスみたいなものだったかもしれません。

こういうことを書くと、絶対に怒りだす人もいるでしょうね。勝手に怒ってください。


新型コロナ収束後も「テレワーク続けたい」6割超 生産性本部調査(産経新聞) - Yahoo!ニュース

私も、1ヶ月くらい前までは、自粛生活がいやでしたが、この生活に慣れてくると、まんざらでもない気がしてきました。このまま出講しなくても生きていけるのなら、そのほうがよい気がします。コロナは一時的には収まっても、ワクチンも特効薬も何年経ってもできそうにないらしいですから、私の希望とは無関係に、この生活がしばらく続くのかもしれません。

パンデミックのあとに残ったのはテレビへの不信感 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

【新型コロナウイルス】同志社女子大・影山貴彦氏 エンタメは不要不急でも不可欠|日刊ゲンダイDIGITAL

この頃、私はテレビを見てニュースを追いかけていないので、世の中の状況がわからなくなっているのですが、「パンデミック」後のメディアのあり方は大きく変わらざるを得ないことだけは明確にわかりました。

情報番組のくだらなさが以前よりはっきり目立つようになったと思いませんか。そのくだらなさを構成する要素はいくつかあると思いますが、真っ先に思いつくのは、勧善懲悪なプロレス的な手口にあります。誰かをわかりやすい敵にして、集中的に攻撃するというやり方です。視聴者は単純な人が多いはずだから、複雑な話をしても、理解できないという思い込みがテレビの側にあるので、どうしても話を単純化して、面白おかしくする傾向があります。わかりやすい敵をでっちあげて攻撃するのは確かに面白いですが、そればかりだと食傷してしまいます。それもチャンネルをかえられてしまわないようにするための方策なので、仕方がないところがあります。しかし、そういうものがつくづく嫌になりました。

もうひとつのくだらなさの要因は、それに関わることですが、テレビは恐怖や不安を煽るようなことをして、視聴者を惹き付けようとすることです。しかし、話をよくよく聞いてみると、話を大げさにしているだけで、ほんとうは大したことではないことばかりです。毎回同じ話を少しだけ色合いを変えて繰り返されるだけで、いくら見ても不安だけが増して、不安はいっこうに解消されることはないことがわかりました。むしろ、誰にぶつけたらいいのかわからない怒りだけがふつふつと湧いてきて、耐え難くなるだけです。

ときどき、テレビの側は、視聴者の荒んだ心を癒そうとして、お涙頂戴のいい話を持ってくるのですが、そのマッチポンプの手口に白けてしまって、アホらしくなってきます。です。できの悪い映画を見ているような気分です。

さらに、テレビ側はそうやって視聴者=消費者の恐怖を煽っておいて、その恐怖を解消するための商品やサービスにお金を使わせようとする魂胆がミエミエなのです。くだらないです。結局、主役はCMであって、情報番組の情報は単なる見せかけにすぎません。メディアの役割は民衆に物事の正しい判断ができるような正確な情報提供ではなく、視聴者に無駄な欲望を喚起させることが主目的になっているのです。

暇つぶしの道具という側面もあります。だから、情報はなんでもいいわけです。ネットで話題のなんとかという動画を持ってきて、おもしろいですねえ、で終わりです。あとになんにも残りません。

メディアの本来の役割はなにかといえば、教育、啓蒙、エンターテインメントだと私は思います。単に不安を増幅させて、テレビから離れられなくしたり、ものを買うことを促すのも結構ですが、視聴者のものを見る目を養うことも同時に行わなければけません。それを怠ってきたテレビへの不信感だけが、パンデミックのあとに、残った気がします。



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ソーシャルディスタンスは不必要!? [雑感・日記・趣味・カルチャー]

ウイルス研究者の京大・宮沢孝幸准教授が唱えるソーシャルディスタンスの新秩序が大反響「マスクをしていれば2メートルは必要ない」(中日スポーツ) - Yahoo!ニュース

人との距離を2メートルほど開ける「ソーシャルディスタンス」は、マスクをする習慣のない欧米での話で、日本では、ほぼ意味がないそうです。

私もなんとなくそうだろうとは思っていました。しかし、人間嫌いの私にとって、他人が近寄ってこないというのは、なかなかないいものなので、まだまだソーシャルディスタンシングが続いてほしいと思っています。

満員電車とか、20センチでもいいから、距離をとって欲しいです。相手が美人のお姉さんであっても、真夏の電車の中で他人と接触するのは気持ちが悪いです。

30年前とは違って、日本人も少し知恵がついたんですから、ITとかAIを活用して、満員電車にならないようなシステムを作って欲しいですよ。いつまでも後進国みたいな公共交通機関なんか利用したくないです。若いうちはあの空間に耐えられるかもしれませんが、老人には地獄そのものです。私は、あまり暑苦しくて何度か気を失いそうになったことがあります。

今日、緊急事態宣言が東京、神奈川、埼玉、千葉でも解除されるそうですが、だからといって、また朝っぱらから電車に乗って、会社に行くようなことはやめてほしいです。午前中はオンラインで仕事をして、午後に少し顔を出すとか、そういう働き方をすればいいじゃないですか。

私らみたいな、教える仕事は、それができないのが残念。だから、ずっとオンライン授業を続けたいなあ、とこの頃は思うようになってきました。コロナのおかげで、私は死ぬほど電車とバスが嫌いだということを改めて思い出させてもらいました。そうとうに我慢していたんですよ。

子供が小さかったときは、あまりお金を稼ぐ必要もなかったので、授業の数を増やさず、午後出勤とかがふつうでした。いまは、そうも言っていられないので、目一杯コマ数を入れています。おかげで、一日100分授業を5コマという日もあり、死にそうでした。オンライン授業でそれがなくなり、ほんとうによかったと思っています。コロナで亡くなった方や苦しい思いをした方もおられるのは承知していますが、私にとってはほんとうにありがたいことでした。今後もコロナの脅威が続くことを願ってやみません。