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「多数論証」「同情論証」 [資格・学び]

コロナ休校の逆境で見えた、捨て去るべき教育の絶対的価値観とは?


教育に限らず、これまで日本では十分な知識や情報がないながらも権限だけを与えられた政府の判断によって、重要な決定が重ねられてきました。そして問題状況や知恵が共有されずに責任の所在だけが問われてきた結果、さまざまな問題が解決されることなく山積みとなっていきました。


政治家は、大企業と結託して、民間に任せろとか言って、有権者に洗脳教育してきましたが、ことごとく失敗しています。民間だから優秀という発想をドブに捨てたほうがいいです。「民間の力を活用する」というスローガンは聞こえがいいですが、民間の中には、腐っているものも多数あります。民間なら安心という信憑はどこから来るのでしょうね。自分の頭で考えたら、それがありえないとすぐにわかるはずです。

自粛警察にネットリンチ…正義ヅラした“屁理屈”をプロが斬る | 日刊SPA!

この記事は「多数論証」「同情論証」という論理学の用語を教えてくれています。

「多数論証」は、「みんなががんばっているのに、どうしてあなたはそうしないの?」という自粛ケーサツの詐欺的な論理です。(over-generalization:過剰な一般化とも言います。)

「同情論証」は、「9月入学は子どもたちのためですよ。賛同しないなんて、自民党と公明党は子どもたちを大切にしない政党なのね。いやーね」という教育評論家の尾木ママの手口です。

いずれも、何が正解なのかわからないのに、自分の考えが正しいと他人に押し付けようとする方法です。世の中には、そういう間違った論証をする人がたくさんいます。彼らのような詐欺師に常に警戒しておかないといけません。

「多数論証」のもう一つの例を挙げてみます。「友達はみんなニンテンドースイッチ持っているのに、どうして僕には買ってくれないの?」などと子供にせがまれたことがある親御さんや、そうやって親に無心をした人は少なからずいると思います。「みんな」って誰? 「なに君となに君となに君」? 「分母は何人で分子は何人?」とか言うと、子供はひねくれるかもしれません。子供にはそういうことは言ってはいけないのかもしれませんが、大人がそういうことを言ったら、直ちに、たしなめてやる必要があります。

「外国ではみな9月入学なのに、日本はどうしてグローバル・スタンダードに合わせないの?」というのも「多数論証」です。さらにこれは、「日本の子どもたちのため」「日本の将来のため」という「同情論証」も紛れ込んでいます。

実際調べてみると、世界中が9月入学だというのは、まったくのデタラメで、国によってバラバラなのだそうです。そういうバラバラなのがグローバル・スタンダードなら、日本が4月のままにしておくことが、グローバル・スタンダードなのです。アメリカのやり方が、グローバル・スタンダードというのは、日本人の多くが思っている思い込みに過ぎません。世界にはアメリカしかないとでも思っているのでしょうか。

また、9月入学に変更することが、子どもたちのためになるかどうかわかりません。入学時期を半年も遅らせることで、回り回って、子どもたちにブーメランが返ってくる可能性が大きいと思います。子どもたちの親にも打撃があれば、その子どもたちも悪い影響を受けます。本当に子どもたちのことを考えるのなら、拙速な変更こそ避けなければいけません。

マスコミを通じて、この人は自分たちの味方で、あの人は敵だと思い込まされていることがありますが、彼らの主張の中身を吟味し、主張の仕方を分析すると、自分たちの味方に思えた人が実はまったく信用できない人であったりします。

そういう分析力や論理的思考力を身に着けることが、小中高大にいたるまで現在の学校教育に取り入れられているのですが、なかなか身につかないようです。「和をもって尊しとなす」が伝統だなんて言って、我々はグローバル・スタンダードである「議論」(discussion)を避けてきたからに違いありません。




#BlackLivesMatter [雑感・日記・趣味・カルチャー]

『#BlackLivesMatter』企業も黒人差別に抗議、力強いメッセージ続く Netflix「私たちには声を上げる義務がある」 | ハフポスト

黒人に限らず、人間の命はみな大切です。

警察などの権力者は、当然人権に配慮して、容疑者の段階では、抑制的にならないといけないはずですが、どこの国でも彼らは庶民を信用せず、威圧的でな態度を示します。日本でも同じです。日本でも、警察が無垢なクルド人に暴力を奮ったという事件があったそうです。他人事ではありません。

自己隔離生活のストレス発散と、政治家によって生活の糧を奪われた失業者たちの怒りをぶつけたい人も少なからず混じっているはずですから、この暴動はなかなか収拾がつかないと思います。街が焼け野原になってはじめて、自分たちの無力さ無能さに気づくのかもしれません。

憎悪が憎悪を生むような状況は、人類にとって、幸福な状況なのでしょうか。これもまた胸糞悪い話です。

私を含めて世界中の人のアタマがおかしくなっています [雑感・日記・趣味・カルチャー]

今朝は運動不足の長男が犬の散歩に行ってくれたので、早朝からポタリングを楽しめました。曇り空のおかげで、爽快でした。

先日、自転車のタイヤを交換したのですが、その後なんのトラブルもなく、快適そのものです。タイヤ交換前はフロントのホイールに歪みがあって、ブレーキを掛けると、ギシギシしていて不快だったのですが、タイヤを細くしたら、すっかり消えました。圧力の問題なのでしょうかねえ。とにかく、ホイールを注文しなくてよかったです。14年前の自転車ですけど、まだまだ乗れそうです。自転車がだめになるより、私のほうが先におっちんじまいそうです。

ポタリング中、いつも思うのですが、屋外だというのに、マスクをしていないのは私くらいなものです。9割の人がマスク姿で歩いています。近頃テレビを見ていないのでわかりませんが、ニュースやワイドショーはいまだに恐怖を煽る報道をしているのでしょうか。屋外で、かつ人通りも少ないところで、なぜマスクをしているのかと疑問に思わない人は、別の意味で危険だと思います。自分のアタマで考えられなくなっているんじゃありませんかね。

北海道の美容院で集団感染が発生したそうですが、そのニュース記事には「消毒しているのになぜ?」という見出しがついていました。室内のすべてをいくら消毒していても、そこに患者がやってきて、咳をすれば、周りの人たちはウイルスを確実に吸い込むのですから、感染するのは当然です。消毒していても感染するときは感染するんだというアタリマエのことがなぜわからないのでしょうか。マスクだって、顔との隙間は必ずできるわけですから、そこから空気を吸い込んでしまえば、マスクをしていても感染します。

本当に、アタマがおかしい人がいっぱいいると思うのですが、彼らの方は、マスクをしていない私のほうがおかしいと思っているのでしょう。

たぶん世界中の人全員、私を含めて、アタマがおかしくなっているんでしょう。数年後、今を振り返ってみて、俺たちは本当にバカだったなあと反省するに違いありません。

How Covid-19 could redesign our world - BBC Future

新型コロナ感染症拡大の影響で、世界中の人たちから他人への信頼がほぼ完全に失われてしまいましたが、この社会の亀裂をどうやって塞いでいけばいいのでしょうか。私は知りませんよ。



ヤラセはいけなくない [雑感・日記・趣味・カルチャー]

「テラハ」制作会社が炎上編集主導 トラブル強調に出演者も疑問 - ライブドアニュース

一般に言われているように、「テラスハウス」の問題は番組制作者側の問題もあるのでしょうけれど、視聴者の知性により大きく関わっていると思います。

我々世代は、プロレスがガチンコ勝負ではないことは百も承知で心から楽しんでいました。もし本気で戦っているのなら、毎日どこかのリングで死者が出るはずですし、読売だの朝日だの一般の新聞に、試合の模様や結果が掲載されるはずなのですが、そんなことは一度たりとてありませんでした。したがって、プロレスは仕組まれたものだ、台本のあるエンターテインメントなんだということは、子供の私でも当たり前のようにわかっていました。なぜいつもきまって悪役側が負けるのか、子供だって不思議に思わないわけがないのです。

我々のようなプロレス世代(古舘伊知郎の実況のモノマネをして遊んだ世代)はそういうものの見方をしてきたので、テレビで可愛いお姉ちゃんがおバカなことを言って嘲笑されているような番組を見ても、この女の子はおバカキャラを演じている賢い女の子なんだね、本当のバカだったら、なかなかこういうことは言えないよなあ、と思う癖がついています。松田聖子だって、「ぶりっ子」を演じていることは、誰だって知っていました。カメラが回っていないところでは、ぜったい違う人間だと思っていました。

テレビの世界というのは、基本的にはそういうヤラセの世界ですし、人間はすべて俳優なのです。何かの役を演じているだけで、素の自分なんて、家族の前ですら見せないし、ましてや他人の前でなんか絶対に見せないのです。私はそういう人間観で半世紀もの間生きてきました。

ヤラセはいけないものだという風潮が世間に広まったのは、プロレスの場合は、高田延彦とか前田日明あたりからでしょう。彼らは、プロレスという言葉を八百長の類義語みたいに使うんじゃないと言って、本気で(本当に本気?)戦うやつような野暮な連中です。そういう余裕のない真剣勝負は、私は苦手です。

相撲だって、昔は、おそらく、八百長だったと思います。カド番の大関がなぜ最後の最後に勝ち越すのか、誰だって不思議に思わないわけがないのです。それが近頃では、野暮な奴らばかりで、本当に負け越して引退するような大関が出てきました。困ったものです。

すべてがリアルでなければいけない、作り物であってはいけないという考え方は「リアリズム」というものですが、いかにリンゴをリアルに描いても、それが食べられないことは本物のバカ以外は知っています。作家が登場人物をいくらリアルに描いても、読者はそのキャラクターを現実の人間だとはふつうは思いません。

テレビも本来そうあるべきです。リアリティーTVというのは、リアルではないという共通認識を持たれてしまったら、存在意義がなくなるから、わざわざ表立って誰も指摘しないのでしょうが、それはプロレスファンと同じ流儀で見なければいけません。君らが演じているのはわかっているよ、リングを降りたら、アブドーラ・ザ・ブッチャーもきっといい人に違いないし、グレートカブキはもしかしたら、本当は悪人かもしれないし、リングの上でのキャラクターを演じていることはわかっているよ、がんばってね」くらいの調子で、俳優さんたちを見るのが知性的な人間だと思います。

話がそれますが、昔は映画スターというのは、のこのことテレビに出てきて、番組の宣伝をするようあことはありませんでした。あくまで銀幕の上での俳優としての姿だけを観客に見せ、本当の自分はファンには見せなかったのです。それがいまでは、「僕はこういう演技をしていますので見てください」だなんて、ふざけたことを言う始末です。現実と空想の世界が区別できなくなってしまっています。こういうのは知性の低い視聴者に相当に悪い影響を与えていると思います。

それはさておき、自分の目にはリアル(現実)だと思ったものでさえ、実はリアル(現実)ではないかもしれないという客観的な視点を持つことは、日常生活でも必要なものの見方です。自分の知り合いをこの人はぜったいこういう側面しかない人間であって、本当に軽蔑すべき人間だと決めつけるような人は、そういうふうに引いた目を持つ知性がないのでしょう。その欠点を補完し、これ以上リアリティーTVの悲劇を繰り返さないためには、知性を磨く教育が必要です。こういうことは学校の先生が教えられることではなく、社会が子どもたちに教え、伝えていくべきことです。

余談かもしれませんが、自分の考えだけが正しいと思うことこそが非知性的だという共通認識を社会全体で形成していかなかったせいで、日本は「この道しかない」とか「空前絶後」「世界でも類を見ないなんとか」などのような空語を駆使するバカを首相にしてしまうような国になってしまったわけです。テラハとアベノマスクは通底しています。


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[EASY Piano Tutorial] The Corrs - Runaway | Lady Gaga - Always Remember Us This Way - A Star Is Born | Ed Sheeran - Supermarket Flowers [音楽・楽器]



懐かしいなあ。昔よく聴いて、ひとりで歌っていました。



ピアノで作ったのかなあ、という感じの曲です。メロディがきれいです。



これも美しい。

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