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Elton John - Your Song (The Colosseum, Las Vegas 2005) [音楽・楽器]



これはエルトンが20代の前半に作った歌。

そんな若々しい歌を聴いて涙を流す中年夫婦の聴衆の人生を思うと、涙が出そうになる。

いまはお金がないけど、いつか二人で暮らせる家を買うからね。
いまは君に何も与えられないけど、この歌を君に贈るよ。
みんなに言ってもいいけど、これは君の歌なんだ。
別に気にしなくてもいいけど、僕がこの歌に込めたのは、
人生はなんて素晴らしいか、ってことなんだ。
君がこの世界にいるだけでね。

私みたいなダメ人間でも、どこかで、そんなふうに思ってくれている人がいるのだろうか。私を生んだ母親くらいかな?



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Stephen Bishop - It Might Be You (Tootsie) (1982) [音楽・楽器]



IT MIGHT BE YOU CHORDS (ver 2) by Stephen Bishop @ Ultimate-Guitar.Com

ダスティン・ホフマン主演の『トッツィー』(1982年)もいい映画でしたね。

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Linda Ronstadt & James Ingram - Somewhere Out There [音楽・楽器]



SOMEWHERE OUT THERE Chords - Linda Ronstadt & James Ingram | E-Chords

ジェームズ・イングラムが亡くなったという一報が入りました。66歳でした。

この歌は、昔よく聴きました。アメリカのアニメ映画『アメリカ物語』(1986年)の主題歌だったのだそうです。

調べてみたら、その映画は、スティーヴン・スピルバーグ監督がアニメ映画を初めて製作総指揮したものとのこと。

この青い月の光のもとで、私のことを思ってくれる人がどこかにきっといるはずだわ、というロマンチックな歌です。白人のリンダ・ロンシュタット(アニメーターの設定!)が窓際に立って歌い出すと、隣のアパートに住む黒人のジェイムズ・イングラムが同じような間取りの部屋の窓際に立ち歌い始めるのです。二人が恋愛関係にあることはまったくほのめかされていないのですが、黒人男性と白人女性の恋愛は、1980年代でもご法度に近く、絵空事であったはずですから、こういう映像はけっこうドキドキしますね。

話は逸れますが、自分は半世紀近く生きてきましたが、いまだに100歳の老人に会ったことはありません。私の周辺を見ていると、70歳そこそこで亡くなる人が多い気がします。日本人男性の平均寿命は80歳ほどですが、100歳まで生きている人など、私の周りには皆無です。親戚にも知り合いにもいません。90歳でも珍しいです。

政府や、政府と結託している金融機関や保険会社は「人生100年時代」というキャッチフレーズを喧伝していますが、明らかに年金を払いたくない国と民間企業のでっち上げ(いつものこと!)です。政治家はたいてい資産家の子息であり、落選しても日々の生活の心配はまったくないですから、将来不安もないでしょう。だから、長生きなのです。そんな人達は、自分たちが長生きする傾向が高いものだから、貧乏人も長生きすると思っているようです。

それが「平均」というまやかしです。お金持ちと貧乏な人とどっちが長生きするのかの統計をきちんと取ったら、きっと富裕層のほうが長生きであるというデータが出るはずです。一般庶民は70歳で死に、お金持ちは100歳で死ぬという設定だと、平均は85歳です。平均なんて、そういうものではないでしょうか。現在の日本政府は国民を騙すために存在しているようなものですから、そういう調査はしないでしょうね。でも、どこかの学者が調べているかもしれません。

これからはますます日本は貧乏になっていくのですから、平均寿命は下がるはずです。「人生100年時代」など「絵に描いた餅」です。



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スポンジ用両面テープ [家・DIY・修理]

またコリドラスが卵を生みました。今回は50個ほどでしょう。一部は、別のコリドラスが食べてしまっています。おそらくすべて無精卵でしょう。

遮音壁の吸音スポンジがよく剥がれるので、スポンジ用の両面テープを買ってきました。

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汎用の両面テープではなく、専用のものはさすがに粘着力が違いますね。税込みで365円もしましたが、満足です。製造元は寺岡製作所、発売元はWAKI SANGYO CO., LTDと書いてあります。06から始まる電話番号が記載されているので大阪の会社でしょう。粘着剤はアクリル系です。

できるだけ経費をかけないようにと、ケチることが多いのですが、結局は、うまく行かず買い足したり、買い直したり、修理することになるので、むだにケチらない方が良いのはわかっているのですが、でも、ついついやっちゃうんですよね。ダメ人間ですから、仕方がありません。

少し余らせましたが、ケチったわけではありません。今回は贅沢に使いました。残りは、また剥がれたときの補修用にとっておきます。



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Yukio Mishima Speaking In English [雑感・日記・趣味・カルチャー]



三島由紀夫の英語は、書き言葉をベースにした、しっかりとしたものであり、発音やイントネーションはイギリス風のものである。彼のような教養人にふさわしい英語を日本人も目指すべきだったのだと思う。

日本文化というと、華道や茶道ばかりに目が行きがちだが、美しさと死が結びついた野蛮な部分があると三島は主張する。その好戦的な野蛮さは、晩年の三島に取り憑いてしまった武士道についての言及だ。

三島由紀夫の言っていることは、およそ50年後の今、「サムライ・スピリッツ」とか「侍ジャパン」だのと、ビジネスや消費の対象にされるようになってしまった。お金を生む「侍」という商品になりさがって、美とは無関係のものになった。

それだけならまだしも、命を賭けて戦うことがヴァーチャルなものになり、生身の人間が発する醜悪な臭いが脱臭され、真空パックの商品になった。そういうものに人々が慣れっこになると、自分の嗅覚でものごとを判断することをやめてしまう。そんな思考停止した人々の数が増えていくと、またぞろ、権力者はそれをプロパガンダとして利用し、一般庶民を無用な戦いへと導いていく危険性が生じる。

三島が間違っていたのは、日本人の90%以上が長期間にわたって農村生活を送っていたことを無視したことだ。都会ぐらしの人間にはわからなかったのかもしれない。戦国時代の武将は国取りゲームを好んだのかもしれないが、領民は戦いが続くあいだ農作物の世話や収穫ができなくなるし、農地が戦闘によって荒らされるかもしれないし、もし自分が殺されたら、家族は路頭に迷うことになるので、戦うことに熱心ではなく、戦うふりだけをして、さっさと帰ってきてしまうということもあったようだ。それが大多数の日本人の本来の姿ではないだろうか。そういう「ずる賢さ」や「醜さ」を本物の戦闘を知らない三島は見ていない。

三島が生きた高度成長期の日本は、外国人の目を通して、日本人は勤勉だとか、真面目だとか、戦いを好まない優秀な国民だと教え込まれ、敗戦の屈辱を忘れさせてくれる外国人の称賛に酔っていた時代のせいもあったのだろうが、三島はそれに意義を唱えようとして、ますます本筋からずれて行き、最終的に自決に至る。それがほんとうに美しいものだったのかどうか、大いに疑問である。いまだに漫画のように思える。

クリエーターである三島は自分がでっち上げたヴァーチャルな世界の中で生き、自分の目に映る空間の薄っぺらさに嫌気が差して、いや怒りを覚え、自ら電源スイッチを切ったのではないかと思う。「現代人は命をかけて生きることが許されておらず、自分も畳の上で死ぬことになるだろう」と予言していた三島の死に方として、それがふさわしかったのだろうか。三島は「自分は甘ったれた太宰に似ているところがあるからこそ、太宰を嫌うのだ」と言ったことがあったが、三島の自決は、「退屈な日常」を生きることからの単なる逃避ではなかったのか。三島はそれを「耐え難い退屈さ」("unbearable boredom")と呼んでいるが、それに耐えなかったのは、彼の甘ったれた部分の表出だったのではないか。

いま「三島の悪霊」が、日本中に取り憑いているように思える。それすら気づかない思考停止の人間が自らを「保守」と名乗ってのうのうと生きていることに私は恐怖を感じる。



三島の言うように、日本には「精神的な独立」が必要だ。しかし、「楯の会」のようなごっこ遊びでは、それを獲得できないことくらいわからなかったのだろうか。



「おいてけ堀」 [コンピュータ・ネット・テレビ]



「ひもじいときに、まずいものなし」

すごいなあ。いま、この話を楽しむ余裕のある環境はないかも。



基本的には人情話に仕立てられているが、それがためにこのオチが力強く感じる。下の作品より、こっちのほうが完成度が高い。



こっちは笑い話なのか怪談話なのか、中途半端な感じです。



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日経平均株価の長期的傾向 [マネー・買い物]

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この半年だけを切り出してみると、日経平均株価が上がる余地はないようです。

このままズルズルと下がり続け、19,000円を割れ、18,000円に近づいていくように見えます。

6か月ではなく、数年単位で見れば、また違って見えるのでしょうが、アメリカと中国の貿易戦争や、ブレグジットなどさまざまな悪材料で、日本企業の業績は確実に悪化しているし、今年は消費税増税、その後の混乱、五輪景気の終焉もあるので、株価の上昇が期待できる状況ではありません。

市場関係者は、自分勝手に、楽観的な見方をしていますが、警戒感がなさすぎです。

底がどこになるのかわかりませんが、19,000円割れは確実でしょう。




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今朝の雑談 橋本治死去 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

橋本治が70歳で亡くなった。私は彼の本を数冊読んだことがある。ただ、彼をスター作家にした『桃尻娘』は、タイトルがあまりに恥ずかしくて、いまだに手に取ることができていない。女性の「桃尻」は大好きなのに、自分の不勉強さには呆れてしまう。

追悼・橋本治 - 内田樹の研究室

内田樹は自身のウェブサイトに、橋本治への追悼として3本、過去に彼について書いた文章を読めるようにしてくれている。1本目を読んでいる途中、以下の引用個所で、私の目の動きが停止し、脳が活動をし始めた。「それで、思い出した」というわけだ。だから、このあと私が書くことは、内田樹が言わんとしていることとは、少々ずれているかもしれない。

橋本さんは書く前に「言いたいこと」があるので書いているわけではない。自分が何を知っているのかを知るために書いているのである。


文学者・文学研究者というのは、あるいは一般の人もそうであるが、作者がすでに心に抱いているメッセージを言語作品を通じて読者に伝えようとしていると思っている。それはとんだ勘違いである。そのような予断を持っている人たちは、作者が言いたいことは何かという問いを発することに疑問を抱かない。我々は、その問いを無意識に発することができるように、小学校から国語教育で叩き込まれているからだ。

そのような洗脳教育を受けてきた真面目な文学研究者は、作者と作品を結びつけ、作者のプライベートな部分や、作品の周辺の細かい情報を見つけ出してきて、無理やり作品に結びつけ、「勝利宣言」をする。かつては伝記的批評というジャンルがあったし、今の流行は、文学作品よりも、文学作品にかこつけて、文化を語る「カルチュラル・スタディーズ」だ。

私は文学研究者の端くれの端くれであるが、そういうのがアホらしくなった。大勢の研究者が常識としている枠組の中でしか、能力が評価されないからである。その枠組に加入するための参加費を支払わない限り、ゲームがスタートラインに立たせてもらえないわけだ。我々はその枠組そのものを疑うことは許されない。

内田樹は、ロラン・バルトを引用しながら、橋本治の作品は、既存の枠組を疑って読まなければいけないことを教えてくれている。橋本治は、俗に言う「メタ認知」を求めているというのだ。

内田樹は、その部分を彼独特の表現で、丁寧にかつスリリングに解説している。必読である。(最後まで読んでいないのに、よく言うよ!)

作家ら高校の国語改革を危惧「実学が重視され小説軽視」:朝日新聞デジタル

文学作品は大学教育でも、極端に軽視されている。この傾向は、この30年ほどの間に起きたパラダイムシフトの結果である。

その根本に潜んでいるのは、言語というのは、透明な器でなければいけないという偏見・先入観である。世の多くの作家たちは、文章を透明な器であるとはまったく思っていない。言語は主役たるメッセージを入れるためだけに存在する、使い捨てのプラスチックのカップのような、存在感のない器であるとは思っていない。その不透明な器こそ、つまり言語こそ主役であると考える。まともな作家はみなそうだ。

しかし、世の中の傾向として、言語は脇役であるべきであり、意思疎通だけで満足しろと考える傾向がますます強くなっている。「疎通」には、滞りなく通じるという意味もあるが、「疎」には、粗くて、雑なことを示す意味もある。コミュニケーションを重視すべきと言い立てる人たちの多くは、むしろ、雑でいいから、思いがなんとなく通じればいいのだと思っているように私には思われる。コミュニケーションなんか、それで十分だと。

そんなふうに言語ではなく、「メッセージ」なるものを重視する傾向を「実学重視」と呼ぶのかもしれない。しかし、「実学」とは、理論より、日常生活を便利にするための実用性や技術を重んじる学問である。お互いの意思を大雑把にやり取りすることで満足しろという学問ではないはずだ。実学とは、そもそも不透明な容器である言語というものを、透明にする魔法の技術でも何でもない。

しかも、本来、不透明な器である言語を透明な器であると見なすことで不便を来すことがある。そういう危険性を無視して強引に「実学」を推し進めていくことで、何が起こるのか。心配である。

人間のコミュニケーションというものは、もっと繊細で、細やかなものである。コミュニケーションや言語というものについての、大きく誤った認識が広まったこの30年の間に、人々の感性が極端に劣化したように思える。作家たちが危惧しているのは、自分たちの懐事情だけではないことを、感性が劣化した人々は正しく認識できているのだろうか。

ここまで書いて、ようやく、自分が何を考えていたのか、少し整理できた気がした。

最近、美味しいものを食べた後の感想を「うまい!」と大声で叫ぶ芸人がいます。PayPayのCMの人ですが、芸としてわざとやっているわけです。それを真似て、声の大きさだけで美味しさを伝えようとする人を見ると、痛々しく感じてしまいます。感想を聞かれたときに、「おいしい」という表現は、いくら美味しくても、言わないようにしています。それが周囲に誤解を与えてしまうこともありますが、何か「うまい」表現はないかとつねに考えているのです。五感だけではなく、知性も使って食べるようにしています。